巡洋艦 熊野 旧日本海軍
 最上型二等巡洋艦4番艦

掲載:2008年07月18日
修正:2017年04月09日
 軽巡 熊野(くまの)1937 (主砲換装前) <タミヤ製>
 ↑左舷前方からの写真
(画像はクリックすると大きくなります。)
 ↑右舷後方からの写真
(画像はクリックすると大きくなります。)
<使用キット>
  • ウォーターラインシリーズ 344
    日本軽巡洋艦「熊野」
    1/700 タミヤ 2003年発売
 

<実艦について>
 本艦は1934年に神戸川崎造船所で起工され、1937年10月末に竣工しています。元々、ロンドン海軍軍縮条約による米英に対する不平等条約で重巡の建造を制限されていた日本海軍が、条約で許されていた軽巡建造枠を利用して重巡と同等の巡洋艦を企画したのが最上型巡洋艦です。このため、本艦は軽巡として竣工していますが、重巡並の性能を求められていたために設計上かなりの無理があり、重武装の水雷艇「友鶴」が復原力不足により転覆する“友鶴事件”や1番艦「最上」と2番艦「三隈」の演習中に強力な台風に遭遇し、被害を受ける“第4艦隊事件”の各海軍艦艇不祥事が発生し、これらの対策工事を盛り込んで竣工したため最上型では一番理想的な姿と言われています。

1939年には、かねてからの計画であった軽巡から重巡への変身を遂げます。いわゆる、主砲を15.5pから20.3p砲に換装したのです。

開戦後、1942年4月にはベンガル湾機動作戦に従事、6月にはミッドウェー海戦に参加。8月には第二次ソロモン海戦、10月には南太平洋海戦に参加します。1943年にはラバウル方面への輸送任務や陸上作戦を支援しましたが、7月にコロンバンガラ島北方で米軍機の雷撃により艦尾を損傷しています。1944年6月にはマリアナ沖海戦に参加、そして10月にレイテ沖海戦に参加し、25日にサマール島沖で米護衛空母と戦闘を行い艦首を損失。戦列から離脱し、28日に何とかマニラに入港して応急修理を行いました。その後、輸送船団護衛で高雄に向かう途中に米潜水艦の雷撃を受け航行不能となり、僚艦に曳航されてサンタクルーズ湾に入ります。応急修理により微速航行が可能となりましたが、11月25日に米艦載機の攻撃を受け、湾内で横転し沈没しました。

<キットについて>
1/700 「熊野」のプラキットは、ウォーターラインシリーズ(WL)のタミヤより発売されています。先代のキットも、竣工当時の軽巡仕様でした。発売当時には他の重巡洋艦よりシャープなモールドであり、一般的な評価も高かったのですが、アオシマの利根型、高雄型とハセガワの妙高型がリニューアルしたため、現在の目で見ると不満の残る部分が目立つキットとなってきました。このキットが2003年にリニューアルされ、シリーズ344として発売されています。リニューアルキットでは、先代キットに比べて各部分の考証が進んだため、先代キットよりも実艦に忠実な形状をしています。全体のモールドも繊細で上品なタミヤ風表現であり、舷側のモールドや形状もすばらしく、私的には大変満足しています。

最上型は15.5p3連装砲塔5基搭載の強武装軽巡として1935年から順次4隻が竣工し、大戦前に主砲を20.3p連装砲塔に換装して重巡になりました。艦橋構造物が前作の高雄型の反省から非常にコンパクト化され、艦容が非常に洗練されたのが特徴で、これが最大の魅力です。

欲を言えば、重巡仕様と軽巡仕様の両方をキット化してもらいたかったですね。(^^ゞ

<作例について>
ほとんど素組ですが、一部ディティールアップしています。

 主な変更箇所は以下のとおりです。
  • 実艦のボートダビットは、キットの取り付け指示と異なり、舷側に付いています。したがって、取り付け用の穴をパ テ埋めし、舷側に取り付けました。
  • 機銃類はピットロード社の武装パーツセットものを使用しています。
船体色は、我が造船所重巡規定色のGSIクレオスの軍艦色2、リノリウム色はPT艦船カラーを使いました。

       
inserted by FC2 system